岡山県三大河川と言えば、東から順に吉井川、旭川、高梁川です。一番西の高梁川は倉敷を通って瀬戸内海に注ぎます。
倉敷市の小学生なら誰もが習うのが「高梁川の改修工事」です。

二つの高梁川があった
江戸時代から明治にかけて、高梁川は下流で東西二つの流れに分かれていました。西高梁川と東高梁川です。酒津山がその分岐点で、倉敷の平野を二手に流れ下り、水島灘へ注いでいました。また東高梁川の分流は東進し、児島湾に注いでいました。
地理関係は次の表がわかりやすいと思います。
位置 西高梁川の西岸 東西高梁川の間(中州) 東高梁川の東岸 北側 船穂 西阿知 旧倉敷 南側 玉島 連島 福田
洪水と水の取り合い
倉敷・水島・玉島はその多くが瀬戸内海の遠浅を埋め立てた干拓地です。東西二つの高梁川に挟まれた低地や両岸は豊かな農地である一方、洪水に対して極めて危ない土地でした。
寛文4年(1664年)から天保5年(1834年)の170年間に36回の洪水が記録されています。5年に1度は水害が発生していた計算になります。
と同時に、農業用水は各地の豪農や村が競い合うように取水していました。東西高梁川には樋門(取水口)が12箇所も乱立し、取水量をめぐる争いが絶えなかったそうです。上流が多く取れば下流は不足する。農業用水は文字通り、命をかけた争いの種でした。
明治の大改修
明治25〜27年の大洪水が引き金となり、地元から改修要望が高まります。そして明治39年に帝国議会で承認され、明治40年(1907年)から内務省直轄の国家プロジェクトとして工事が始まりました。
方針は至って単純。東高梁川を廃川にし、西高梁川に一本化する。
明治44年(1911年)の起工式から大正14年(1925年)の竣工まで、実に19年間にわたる大工事でした。(総工費約800万円。現在の価値に換算すると約800億円規模。延べ労働人口300万人、1日平均200人が19年間働き続けた計算になる)
東1ヶ所で取水し、東西へ配る

改修の中核は、酒津に設けた取水施設です。「高梁川東西用水取配水施設」——笠井堰で水を堰き止め、配水池で一度受け、主要用水路に安定的に分配する仕組みです。

地図で見ると首をかしげたくなりますが、東岸の酒津で取水した水が、一旦高梁川(旧西高梁川)を潜って、西岸の玉島の田んぼに届けられるのです。現在ではもっと西の笠岡湾干拓地(昭和40年代以降に造成)まで、酒津で取水した水が届けられています。

これは改修工事が生み出した精巧な水利システムの産物です。酒津の取水樋門は現在も現役で、国の重要文化財に指定されています。
下水道がなくても長らく問題がなかった
東高梁川の廃川工事により、洪水が激減し、倉敷の中心部は乾いた安定した土地になりました。また倉敷は地理的に台風上陸がほとんどない地域です。
水害の少ない倉敷は、下水道整備が遅れていても、長らく「困らなかった」街でした。倉敷市が本格的に下水道整備を進めたは、昭和50年代からだと記憶しています。私が18歳で倉敷を離れた1982年頃は、普通にバキュームカー(くみ取り車)のお世話になっていました。
東高梁川跡地は今
東高梁川が廃川になって生まれた土地は454町歩(約450ヘクタール)にのぼったそうです。この広大な土地が、その後の倉敷の発展を支えることになります。
倉敷紡績の系列であるクラレの酒津工場の敷地もその一つです。現在では、中四国で三番目の規模を誇るイオンモール倉敷があります(1位イオンモール広島府中、2位イオンモール岡山、3位イオンモール倉敷)。四十瀬にある倉敷運動公園野球場や水島臨海鉄道(JR倉敷駅から水島の三菱自動車工場を結ぶ)の線路も、かつての東高梁川の跡地を利用しています。
この大工事は市民の誇りじゃ

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