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倉敷市の屋台骨「水島コンビナート」の歴史を年表でたどる

小学生の頃、倉敷では光化学スモッグ注意報がよく出ていました。倉敷地区そのものは、それほどひどくはなかった記憶があります。それでも、空気の話は身近でした。

大学生の頃には、すでに倉敷を離れていました。実家に帰省すると、昔ほどではなく、空はだいたい綺麗でした。ただ、福田・水島方面へ行くと、空が濁って見える——そんな記憶が残っています。

2024年に倉敷へ戻ってきてから、空は綺麗です。福田・水島方面に出かけても、空は綺麗です。

倉敷市の屋台骨とも言える、水島コンビナート。いまの姿を見る前に、どうやってここまで来たのかを、年表で一通り押さえておきたいと思います。百科事典のような深掘りではなく、索引に近い記事です。

水島臨海工業地帯(連島山より)
水島臨海工業地帯(連島山より)

連島山から見た、水島コンビナートの遠景です。手前の平地と、海沿いの工場群。空は澄んでいます。

岡山県によると、水島臨海工業地帯の総面積は約2,500ヘクタール(倉敷市域のおよそ7%)。製造品出荷額等は、県全体の約半分を占めるとされています。数字の詳細は、別記事でご覧ください。

目次

土地の前提:干拓と廃川

公式には水島臨海工業地帯と呼ばれる一帯です。通称が、水島コンビナート。以降は、水島コンビナートと呼びます。

その土台は、まず干拓でできた平野です。くわしくは、以前書いた記事をご覧ください。

つづいて、1925年、東高梁川が廃川地になります(約454ヘクタール)。いまの水島周辺の骨格に関わる土地です。こちらも、以前の記事で扱いました。

この土地を皮切りに、のちのコンビナートが成長していきます。

水島臨海工業地帯(GoogleEarth)
水島臨海工業地帯(GoogleEarth)

Google Earthで見た、いまの水島臨海工業地帯。高梁川の河口と、幾何学的な埋立の形がよく分かります。

年表でたどる水島コンビナート

水島の主な出来事を、年代順に並べます。企業名は、できるだけ当時の呼び名を先に書き、いまの社名は括弧で補います。年表の骨格は、岡山県の公表資料などを参照しています。

軍需から民需へ(1943–1946)

1943年
三菱重工業が、水島航空機製作所を設立・操業します。水島臨海鉄道も、この年に開通します。工業化の入口は、航空機製造でした。

1945年
水島空襲。工場は壊滅します。

1946年
オート三輪「みずしま号」の生産が始まります。航空機から自動車へ——戦後の再出発です。

埋立と企業誘致(1953–1961)

1953年
岡山県が、大型船のための航路・泊地の浚渫に着手します。出た土砂で海面を埋め立て、工業用地を造成していく——コンビナート用地づくりの起点です。

1958年
三菱石油の立地協定(誘致の調印)が行われます。

1960年
三菱ガス化学・水島工場が操業を開始します。

1961年
三菱石油・水島製油所(現・ENEOS水島製油所)が操業開始。中国電力・水島発電所も、この年に操業を始めます。浚渫と埋立で用意した土地に、製油工場と発電所が乗ります。

県南の枠組みと、コンビナートの顔(1961–1967)

1961年
当時の岡山県知事・三木行治氏が、岡山県南百万都市建設計画を提唱します。岡山市と倉敷市を含むこの大きな計画は頓挫します。くわしい経緯は、ここでは書きません。頓挫のあと、倉敷・児島・玉島の三市合併へ向かう流れが続きます。

1964年
岡山県南地区が国の政策として新産業都市に指定されます。同年、三菱化成系の事業所(現・三菱ケミカル岡山事業所)が操業を開始します。

1965年
旭化成・水島製造所が操業開始。川崎製鉄・水島製鉄所(現・JFEスチール西日本製鉄所・倉敷地区)も操業を始めます。石油・化学に加え、鉄鋼がそろう年です。

1967年
倉敷市・児島市・玉島市が合併し、いまにつながる倉敷市の枠ができます。三市合併の詳しい話は、別の機会にします。

自動車会社の独立と、瀬戸内法(1970–1973)

1970年
三菱自動車工業が発足します。水島の工場は、同社の拠点になります。

1973年
通称「瀬戸内法」(瀬戸内海環境保全臨時措置法)が制定されます。この法律により、これ以上の埋立造成が抑制されることになりました。

当初の埋立構想は、もっと広かった

手元に、1968年版の『市政便覧倉敷』があります。そのなかの「倉敷市開発構想図」です。

倉敷市開発構想図(市政便覧倉敷’68年版)
倉敷市開発構想図(市政便覧倉敷’68年版)

当時の開発構想図を見ると、工業用地の想定は、いま目にする範囲より広かったことが分かります。どこまで広かったかの細部は、この記事では立ち入りません。ただ、「いまの海岸線=当初から決まった最終形」ではなかった、ということだけ、覚えておきたいです。

いまの水島へ

年表で骨格を押さえたうえで、いまの外景を一枚。

水島臨海工業地帯(鷲羽山公園線水島展望台より)
水島臨海工業地帯(鷲羽山公園線水島展望台より)

鷲羽山・水島展望台からの眺めです。説明板には、いま立地する企業名が並んでいます(板の表記は古い社名も残っています)。

倉敷市の製造品出荷額等は、市区町村で全国第2位・約5.5兆円(2023年)——その重みの多くは、この一帯にかかっています。数字の読み方は、別の記事へどうぞ。

まとめ

干拓と廃川でできた土地を、戦後の浚渫・埋立と企業誘致で伸ばして行き、水島コンビナートの骨格ができました。航空機から自動車へ。石油・化学・鉄鋼。県南の都市計画の頓挫と、三市合併。そして1968年の構想図が示す、もっと広かった埋立の想定。

この記事は、その流れを年表の索引として並べたものです。個別の深掘りは、そのうちおいおいに。

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